役員紹介

理事長

ご挨拶

当組合の発端は江戸時代の弘化年間の頃に東京乾海苔仲間として始まり、以後明治・大正・昭和と何回かの名称変更を経て、昭和30年4月に「東京海苔問屋協同組合」となり、現在に至っております。組合員は東京に事業所を有する、乾海苔及びその加工品の卸小売業を営む事業者であり、現在の組合員数は64名となっています。
本組合は、組合員の相互扶助の精神に基づき、組合員のために必要な共同事業を行い、もって組合員の自主的な経済活動を促進し、かつ、その経済的地位の向上を図ることを目的としております。そして何よりも、広く皆様に愛される海苔をお届けする事、これこそが我々の使命であると存じます。

朝食のお膳に、昼食のおにぎりやお弁当に、またおかずや麺類のトッピング、そしてお寿司にと、日本人にとって、とても身近な食品である海苔ですが、日本ではすでに上代、飛鳥の時代から食用にされていたと考えられています。
670年ころに編纂された「常陸風土記」には、霞ヶ浦を訪れたヤマトタケルが浜辺一面に海苔が干してある風景を見たとの記述があります。また、701年の「大宝律令」の「賦役令(ぶやくりょう)」では海苔が他の海藻類とともに「調」として認められ、税や神々に捧げる供物とされていました。中でも海苔は冬になると姿を現し、春になると消えてしまう不思議な海藻として価値は高く、ワカメの倍の査定がなされていました。平安時代の「延喜式」には宮中への献上品や上級貴族への給仕のひとつとして海苔が記されています。もちろんこのころは、浜辺の岩や棒杭に生えた天然の海苔を摘み採っていました。

海苔の養殖が始められたのは、江戸時代の貞享・元禄(1684~1703年)のころからと言われています。そのころ、江戸の漁師は毎日将軍家に鮮魚を献上しなければならず、そのため浅瀬に枝のついた篊(ひび)などで生簀を作り、常に魚を用意していました。冬になるとその枝にたくさんの海苔が生えることに着目したことが海苔養殖の始まりと言われています。でもこのころは海苔の胞子(種)のつき方が不明で、ただただ漁師の経験と勘に基づいた養殖であったため、年によって収穫量が違い、豊作なら大金が入り、失敗すると借金が残るので、海苔は「運ぐさ」と呼ばれていたそうです。
しかし海苔養殖は幕府の保護を受け、品川や大森の海岸で大量生産が始まり海苔は江戸の特産品となりました。それまでは摘まれたものをそのまま干して食していましたが、江戸時代も中ごろになると簀(す)で漉く四角い板のりが登場し、海苔巻きが庶民の間で大流行し、屋台寿司も現れました。

長い間、自然まかせの天然採苗が続いていた海苔の養殖ですが、1949年にイギリスの海藻学者キャサリン・メアリー・ドリューによって海苔が夏の間、貝殻の中で糸状体となって過ごしていることが発見されました。これをきっかけに海苔の一生が解明され、人工採苗が実用化し、その後の冷凍網技術の実用化、浮き流し養殖(網を水面に浮かす方式)の開発などにより、海苔の生産枚数は飛躍的に増加しました。
人工採苗が普及するまで日本の海苔生産枚数は年間15億枚足らずでしたが、その後の技術革新で1973年には100億枚台の生産を達成しました。

その間、時代は移り、東京湾では昭和の高度成長期の港湾整備に伴い埋め立てが進み、海苔の生産地は九州の有明海などに移って行きましたが、一大消費地である東京は今でも海苔流通の要となっております。

海苔は、味・香り・艶・食感と噛み切ったときのパリッと言う音など、五感を全て楽しませてくれる食品といえます。また、万能調味料ともいえる豊富なうま味成分、良質なタンパク質や食物繊維、葉酸が豊富に含まれている優れた自然食品として、私たちを惹きつける魅力に溢れています。どうぞみなさんもご家庭で海苔を食べる機会を増やしていただきたいと思います。

今後とも皆様においしい海苔をお届けできるよう、業界の発展に尽力して参ります。どうぞ「東京海苔問屋協同組合」をよろしくお願い申し上げます。

役員一覧

役員一覧

理事長
山本 德治郎
副理事長
小林 善昭
小松 正芳
専務理事
増田 泰彦
髙岡 則夫
常務理事
宮永 卓治
浪久 浩明
丸山 慶太
窪田 弘平
理 事
花岡 茂樹
相川 達男
赤羽 聡
髙島 良司
監 事
五味 晃一
顧問
花岡 源介
髙岡 正則
増田 良一